逢沢りくにかけられた呪い。
『逢沢りく(上・下)』(文藝春秋)を読んでちょっと打ちひしがれた。
りくは中学生。
おしゃれなパパと、カンペキなママ、
「オーラがある」と友だちが憧れる、ちょっと特別な存在。
美しい彼女は、蛇口をちょっとひねるように、
嘘の涙をこぼすことができたー
「美人でちょっと特別な存在」のりくが関西に一人で親戚の家に預けられることになる。嘘の涙を流すことができるりくは、本当の悲しみを知らない。
ほしよりこは「おしゃれなるもの」「権威なるもの」を徹底的にこきおろす。猫がプチセレブ家庭の家政婦になったり、関西弁の家庭に抵抗する潔癖な少女を置いてみたり、設定だけでもう面白いけど、皮肉だけじゃなく人情を描くからバランスがとれる。中身はやっぱり期待以上だった。
私は傷ついていないと言うとき、人は傷ついている。
傷ついていると誰かが気づいていることにも傷つく。
女性が描いたものはすべて抑圧された側としての描き手の思いが含まれていると思う。描いている方と読んでいる方が同じ土俵だから、わざわざ展開図を広げるようにくどくど説明するのはなんだか野暮だ。
でも言いたい。これは母の呪いをかけられた女のカルマの話だ。りくの後ろには、呪いをかけ続けている母親がいる。母親が、浮気をしている夫と話すとき、「あの子(りく)を傷付けないで」という。暗に(わたしはいいけど)という言葉を選ぶことで「娘を盾に夫を責める卑怯さ」に母親は無自覚でいる。「私は傷付いてなどいない」。傷付いているのは、ママだ。ママは関西弁の芸人が出ているテレビや、人の手作りのものは食べない。りくは母親とそっくりに育っていく。
本当に悲しいときに人は泣くのか、
ここは泣くところだ、と思うから人は泣くのか。
りくは「ここで泣いてね」とステージを用意されれば涙を流すことは出来るが、ママとけんかをしても泣かない。自分は悲しみを知らないとまで言う。読者からすれば、りくは傷付いて十分悲しみを知っている。ママが用意するステージをこなしすぎて、泣くことと嘘をつくことがイコールになっているのだ。泣けないのは当たり前だ。
ママはりくが小鳥を殺そうとしたことでりくの限界を悟った。あの小鳥はりく自身なのだろう。
海外留学させることもできただろうが、関西の親戚に預けることを選んだのはママだ。ひとり、空の鳥かごを見つめるママの後ろ姿が大きなコマで描かれる。
作り物のようだったりくの家族の会話と対照的に、関西弁は生々しい生き物のようだ。りくはママの呪いにしがみつくが自分の感情を無視することはできない。ママの欲しがる「ここで泣いてね」のステージも用意されない。りくは家庭の温かさに触れて、呪いを解いていく。
ラストシーンののち、りくは家に帰るだろうか。
呪いから解き放たれた娘は母親から遠ざかろうとするだろう。
小さな親戚の男の子、時ちゃんが言う。
「お姉ちゃん、あんな司お兄ちゃんとおじいちゃんはまちがえたの 大人でもまちがえることあるの」
「だめなのよ...大人は絶対にまちがっちゃ...絶対に...」
「ゆるしてあげるの」
「だめなんだから簡単にゆるしちゃ...」
りくは15歳。まだ子どもだ。
大人を許すのはもう少し先でもいい。